この文章は、2014年に、知恵と技術について書き表そうと試みたものですが、私が如何に知識不足で世界を理解できていないか、ということを露呈しています。その点を考慮して読んでください。      2020年8月に追記

 

 

以前()さんに「山田さんにとって技術とは?」という質問をされて「技術というより知恵に近いです」と説明したけれどうまく言葉にできず、あれ以来考え続けてきました。

 

私は動物を殺したことがないので、空論にすぎないですし、以下は穏やかな例えではないですが、

 

「魔の山」の登場人物のナフタの父親は屠殺の仕事を請け負っていて、(これは全て小説によるもので私の思想は一切含まれません)キリスト教社会では動物を失神させてから屠殺するのですが、ユダヤ教であり極端な神秘主義者だった父親は意識のある動物の動脈を切り、出血させることで動物を死に至らせていました。

ナフタの父は、キリスト教徒の子どもが殺された事件をきっかけにおきた暴動の際に、残酷な思想のために残酷ではないはずのキリスト教徒によって惨殺されました。

 

「失われた時を求めて」の登場人物のフランソワーズが鶏をしめるときに

鶏が暴れて、必死でつかまえて殺した後に最後、死んだ鶏に対して「ちくしょう」と言っているところを影で見ていた主人公はフランソワーズの残酷さに震え上がり、両親に頼んで解雇してもらおうと思います。

ですがすぐに、フランソワーズがいなくてはあのおいしい料理を食べれないのだと気がつき思い直します。

この二つの小説のエピソードから、屠殺を例えに知恵と技術について考えられると思いました。

矛盾、考えの至らない部分、すみません。今後も考察を続けていきます。

 

 

殺して食べるのは

これは知恵ではないでしょうか

なんとかして殺して食べて生きることです

知恵は反応や理解でもあり変化し私的なもので量産できるものではない

 

殺しと血抜き

この作業を合理化していくのは技術ではないでしょうか

 

合理化していくことで残酷性は薄れていきます。動物にとっても苦しみの時間が短くなる。

 

でも死は死でそれは真実です

 

魂と、殺しの罪、これは価値観や信仰、精神的なものだと思います。

 

きれいに血抜きされた肉の次の問題は味付け、目的に合った盛りつけだと思います。装飾。

 

野蛮で粗野な絵を描きたいです。

それはイメージだけが野蛮なのではなくて

絵の在り方が野蛮ということだと思います。

 

合理化、方法を整理して形にしていくことで対象も自己も楽になれる可能性があります。

救われることには価値があると思います。

また、形にされた方法は引き継ぐことも可能になります。教育。

でも何から救われたのかを忘れるおそれはあります。

 

スタイルとしての洗練された野蛮なイメージもあると思います。精肉のようなデザインされたものです。

 

2014.5.9