人をコントロールするための、真実面した醜悪な嘘ばかり。

 

(醜悪さ自体には嘘はないし時として美しい、美しい必要はない)

 

私は真実を知り得ませんが、それが真実でないことはわかります、 真実を語れる人などいないからです。

例え真実を知っていても、それは公式な文脈になれない。

もし成立するならば、モリエールなりドストエフスキーなりグラスなり、誰かの好きな作家が、世界をすでに解決している。

人間は皆、「表現」までしかできない。ゆえに、「鑑賞者」には「勇気と責任」が要求される。

 

真実を語っている風の、あなたは醜悪な嘘つきです。

出来事の順序の先端や、唯一の時空の中心に、自分が安定して属しているかのように振る舞う。

 

真実を語りたがる人は事実を曲げてしまう。目的が決まっているからだ。

 

これは有閑的な芸術や、私の作品の話などではないです。

物質的な現実の、今の今の今の話です。 私は窒息しそうです 

あなたの魂は呼吸できているのですか? 窒息の先にどんなイメージがあるのでしょうか

 

やっかいなことには、イメージも真実ではない

 

 

 

 

 

 

 

 

そこらじゅうの人が

物語を外に求め、参加したがっている、感動したがっている、評価したがっている 

あばよくば自分を、その物語の意味のある登場人物として認めてほしいと願っている

 

まるで社会から主体性とそれを運用するフィールドを提供されているかのよう

 

 

だけどその物語はその人の物語ではないので、自ら捨て駒になっているようなものであり

そう望んで立ち回ることで、自分の物語を無自覚に喪失している(あるいはその喪失から目をそらしている)

 

でもおそらく

自分の物語は成立しない

目の前にある景色からすら意味を読み取ることはできない

 

物語なんて最初からないのだろう

それは目的があって発明された(もし最初は喜びや哀しみの無邪気な共有のためであったとしても)

理解するための入手可能な物語は信頼できる存在ではない

もし真実の物語があったとして、それを手に入れられる人はいない

 

生きる上での不確実な生の主体と、物語の不成立の間で立ちすくむことに耐えられない

意味のないグロテスクな主体として在り、試みるたびに崩壊する物語を続けることに耐えられない

私たちは物語の瓦礫を眺め愛している その愛の不可解さに耐えられない

 

 

私は物語ろうとする行為について述べているのではなくて

物語に意味を与えて確定する、歴史として権威化すること、それらの架空の価値を消費することで何かを創造している気分、

そのようなことについて述べています。

物語ろうとする欲求は自然なものだと思うけれど、物語は成立しない。

意味を与えるということへの畏怖で、物語は、語り部自らが破壊する仕組みになっている。

世界には、試みられた物語の痛ましい瓦礫が積み上がっていて、私はそれらを愛している。

 

物語を完成させようとする行為、

物語を利用して正当性を訴える行為、

全ての、語り部によって破壊されなかった「物語」は本質的にイリュージョンであることをひた隠して、

それらの多くは集団のために用意されたものであるだろうが、

他者を説得教育しようとする行為、

このようなことに警戒する。

正義の言葉で物語を飾り、雄弁なのは誰か

与えられた物語を貪っているのは誰か

そのような行為は、現実的な破壊を引き起こす。

 

 

 

 

 

 

子どもの頃は、

お父さんとお母さんが助けてくれる、と思っていた

お姉ちゃんが守ってくれる、と思っていた

先生が助けてくれる、と思っていた

おっちゃんおばちゃんが助けてくれると思っていた

実際、彼らが私を助けてくれたのかというと、そうではなかったと思う

ずいぶん傷ついた

私自身が助けてほしいと思っていなかったのだ

私の拒絶とうらはらな甘えと、大人たちからの批判があり、

立ち直れない月日が長かった

だけど、少なくとも今も私は生き、自分と向き合い続ける気力も体力もあり、あらゆることを依然拒絶し続けている

私のまわりの大人たちは最終的には根負けし、私の個の領域を侵食するのをあきらめ、冷ややかに傍観したが、

私はそのおかげで私として息を吹き返した 

大人が(特に、親ではない大人が)、子どもを幸せにしてあげることはできないかもしれないが、

子どもが勝手に孤独に幸せを求めて呼吸する時間を、大人は支え保証できなければいけない

子どもが、自分のためだけに呼吸をし、自分として行動し悩み苦しみ、時には病になりながらも生き、

理由のない幸せを求める、

その時間を社会が支え保証しなければいけない

社会の子どもの空間が真空化しているように感じる

1年半前からはさらに顕著に 

 

自分のために自分として生きるということは、孤独であるということだから、厳しいことだが、

自分のために生きることを知らない、孤独に耐えられる強度のない人間は、

社会の役割をこなすことはできても、世界(国際的社会という意味ではない)のために役立つことができないのではないか

それでも存在することはやめられないのだから、

人はどう抗っても孤独なはずだ

むき出しな孤独を凝視し呼吸することを知らなければ、自分のために自分として生きていけない 

孤独に怯え目をそらし続け、社会的役割に自分の存在意義と見返りの幸せを求め、

社会の役割をこなす人々は、個の領域に鈍感になり、

他者の呼吸を、思いやりや絆や行儀作法の名目で管理しようとするだろう

 

ドローイング連作「あくび」