「祈り探し」展 2024年
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絵について何を語ればいいのか、描けば描くほどわからなくなってしまった。
そんなにたくさん描いたわけではないけれど。
こじんまりとした砂丘の窪みに座って海を眺めていた時、祈りとは空間(世界)に向かうものだと思った。
絵画においてモチーフは必ずしも重要ではない気がする。
そうであるから、権力者の肖像画や自分が信仰しない対象についての絵にも魅力を感じることは可能だ。
私にとって、ユニークな形象をユニークな技法で描いたとしても、絵そのものとは無関係なんだろう。
形象はひとつの姿として絵画を実現するけど、それだけでは足りないと思った。
形象は描き始めの糸口としての役割を終え、絵の具の中で輝いている。
絵画は形象を描くためではなく、空間(世界)を希求する行為になるが、描く行為に変わりない。
どう足掻いても、描くという行為は自分自身が選択し能動的に描くということだ。
描かれることによって意味を失った形象が、空間(世界)を支えている。
形象の跡にイメージが表れる、「絵画がイメージを匿う」と私は言ったりする。
どう在るのか。どう無いのか。いつも振り出しから。
私の言葉は慎みがなく不快であるし、不実な言葉で汚れていくようで気鬱になる。
私の精神では深く思考できそうにない。
厳密なことはわからないけど、空間(世界)、祈り、イメージが絵画につながっている。
それ以上はわからない。「イメージ」をどういう言葉に置き換えたらいいのかもわからない。
おそらく私は、度々肖像画の形を借りて空間(世界)を描こうとしているのだけれど、
私は空間(世界)を喪失したままなので、何なのかもわからず、描くことは難しい。
祈りについての二つの詩を、この展覧会に添えようと思う。
・
祈り探しが舟漕いで 言いました
そこどいて
どいてください どいつも こいつも
もっと祈って ああでも
祈りが あるのかないのか
かなり祈らないと わからない
だから どいて どかして どっかいって
祈り探して石渡り
祈り探しが言いました
「ああでも わからない
祈りが あるのかないのか
かなり探さないと 祈れない」
・
池畔で途方に暮れてたら
亀が集まって来て パンをくれえな言うてきた
ああパンは持ってない 代わりに先日見た夢の かけらを投げたろう
もう 自分の存在価値を賭けるような 絵の描き方をしたくない
いっそ食べてくれないか 壁一面につき一枚の絵
世界中の絵を集めたら 世界より大きいか
腐れて膨らむイメージは アトラスの荷より重たいか
吐かれた祈りの言葉は歴史より長いだか
池の亀さん 亀さん
ひとの祈りの邪魔する奴の 足をかじったってくれ 分からしたってくれ
池畔で途方に暮れてたら
亀が集まって来て パンをくれえな言うてきた
ああパンは持ってない 代わりに夢のかけらを 投げたろうと探していたら 亀曰く
「もう パンはいらない
いっそ祈りに似た 壁一面につき一枚の絵
賭けるなら
負けが込んでも描けばええ どの道パンのひとかけらすら持っとらへん」
祈りのかたまりを投げ入れた 池一面につき幾重の波紋
池のかめさま かめさま
ひとの祈りに指図する奴の 足をかじったってくれ 分からしたってくれ
OutermostNAGOYA 井上昇治さんに文章を書いていただきました(2020-2024)。読んでいただけるとうれしいです。
「祈り探し」展 2024.10.12-11.16