私の絵の中には私の記憶の破片が在る。

だけど、それが事実だったかどうか、私にはもうわからない。

私の中にも絵の破片が在る。絵が私の記憶を捏造している

それなのに、絵を描いている間には何も考えられない。

記憶やイメージに囚われると、絵は消えてしまう。私が絵を消す。

反対に絵が「表れる」ときに、絵の中から私は消えている。

 

私は生きていて私と別な絵を私から描く。

私は生きていて私のことを私と別な絵に描く。

色彩やストロークから組み上がる空間に、応えることを繰り返したい

 

 

山田七菜子

 

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山田七菜子について 保坂健二朗

 

絵画は、嘘をつくことを許す。あるいは嘘をつかせる。そのふたつの感覚の間で、画家は悩む。悩みながら描き続ける。ほとん どそれは、マゾヒスティックな世界だ。 なぜ絵画は画家に嘘をつかせるのか? 絵画に本当のことを語らせようと思ったその刹那、システムが必要となるからだ。シ ステムは、絵画から余計なものを捨て去ることを、システムの運用者、すなわち制作者に求める。そうして「本当のこと」は「嘘」に なる。本当のことを語ろうとすればするほど、嘘の泥沼へと足を踏み入れなければならなくなる。それが、絵画だ。 であれば。嘘を嘘と知り抜いて、絵画は嘘であることを楽しんで、享楽的に、愉悦的に描くことが必要となるのではないか。だ がその姿勢は、当然のことながら、絶望と隣り合わせである。嘘をついているという痛みに満ち満ちてている。 この、いささかスキゾフレニックな感覚に耐える精神力が、画家には求められている。絵画を愛していなければ、あるいは、本 当のことを、嘘をついてでも語りたいという矛盾に満ちた想いに貫かれていなければ、到底耐えることなどできない。それに耐 えられない者は、往々にしてシステムの深化(微細な変更?)自体に目的を見つける。そうした者たちに絵画が概念化されてきて しまった感があると憤っているのは私だけだろうか。 絵画は概念などではない。それは享楽と絶望とによって彩られた「場」であり、しかも「嘘」に満ち満ちている。山田七菜子は、 そのことを本能的に知っている。であればこそ、支持体として、キャンバスだけでなく、時に別のものを選ぶ。オイルの缶、瓶、使 い古したパレット、拾ってきた木の板、エアキャップ等々。その在り方を見ていると、彼女が、「絵画」を、モノではなくてつくること へと一端解き放ち、その上で、自分自身の生と一体化させた上で、そこに物語を紡ぎ出そうとしているのだと感じられてくる。 嘘つきな絵画を信頼している山田の絵を「感じる」ためには、もちろんその物語を読み解くことが必要となるけれども、それは また別の話。あるいは、絵の前でこそなされるべき話。まずは、見ることが必要となる。見る者もまた、絵画ならではの嘘に、欺か れ、傷つく必要がある。

思い切って言おう。今、絵画を語ろうとするにあたってキーワードとなるのは、愛だ。パースペクティヴとか平面とか、イリュー ジョンとかモデルだとかは、今やどうだっていい。 確かにそういう理念なり方法なりは、ある。でもそれが絵画の目的となってはならなかった。絵画の長い長い歴史を振り返っ てみてほしい。すべては、自らの、ある人の、共同体の、あるいはみんなの、愛(情)を注ぐに足る存在を生み出すことに賭けられ てきてはいなかったか。その過程において様々な技法や理念が確立されてきたけれど、でもそれは手段であった。目的と手段 を混同してはならない。 絵画は、その形式上、愛情を注ぎやすい存在である。普通壁に掛けられるそれは、四方から見られることを望む一般の彫刻と 違って、人とface to faceで向かい合う。絵画自体が、人と関係を結ぶことを必要としているのだ。強いようで弱く、弱いようで強 いそれは、画家の愛によって生まれた新たなる存在として、さらに誰かと結びつくことを切実に求めている。 と同時に、絵画は、壁に掛けられるという理不尽な姿で人々の前にさしだされている点において、まるで生贄のようでもある。 生贄。「美」という言葉の語源。「台(大)」の上に捧げるためのかたちのよい羊。だが、もっと俯瞰的な視点を持てば、生贄とはつ まり人々の思いを集約するための存在である。「美」の意味はそこにも求められるべきではないか。 本展では、そうした美=愛=絵画の機能に正しく魅せられた人達に参加してもらう。ある者は、オーソドックスに、新作を中心 とした構成とする。ある者はアーティストを目指したときから変わらない絵画への憧憬を、彼らしい方法で語る。また互いに敬意 を抱いていたある者たちは、ふたりでひとつの展示を構成することに挑戦する。 彼らの作品の間に、なにかひとつの視認できる傾向を見出すことはできない。むしろ、かけ離れていると言ってもよい。でもそ の違いは、彼らが絵画の機能を、絵画的な愛のあり方をリファインしようとするからこそ生まれるのであって、次の一点において はやはり共通している。画家たちは、自らのアトリエの中で孤独に生まれたものが、やがて誰かと、あるいはなにかとつながると 信じている。つながるために最適なあり方を探している。今ここ日本で絵画を特集すべき理由は、そこにある。